あほな話

あほな話

違う考え方

ある年配の人が「日記なんかネットに公開せず紙に書いたらいいのに」
と言った。よくある話だと思うけど、私は忘れられない寒気を覚えた。
私にとって「ずいぶんひどいことを言われた」感覚だった。
その人がそういうふうに言った理由を最近やっと知った。
その人は「人間至上主義」で、私は「データ至上主義」だったというわけ。
それは、最近売れてるある書籍に書いてあったからだけど。
あの当時の私は、文系と理系の違いだと思っていて、
それもあながち間違いだったわけでもないが。
で、だから何?それ以上、考えるのは面倒くさい。

それより、今日は別の考え方を知った。
何かの役に立つ物を作ってもつまらない物しかできない。
何の役にも立たない物を作って遊んで楽しむことから
新しい世界が開けたり、不可能と思われていたことが
実現していく…何のこっちゃ?省略。

自然災害の夢

自宅から外を眺めていると、はじめ曇っていて

次に晴れて、再び曇り始めたかと思うと、

上空に強烈な風が吹いていて、雲が猛烈な速さで

流れていた。その雲がみるみるうちに低空へ下がり

ついに家の屋根近くに来た時、それが雨雲というより

海をひっくり返したような、上下逆転の水面だと

いうことに気付いた。まるで、津波が上から来るみたいな。

そして、ついに家の屋根に水面が接して、窓の上端に

水がぶつかる瞬間、その夢から覚めた。

許され難い死に方

不治の病が原因の苦痛が強すぎるから、あるいは

そういう難病に罹ることが確実になった場合、

それ以上苦しまないため、あるいはそんな苦しみを

味わうまで生きることを防ぐため、安楽死することや、

そうして亡くなった人や、自力で死ねない人のため

…そういう条件はあまり関係ないかもしれない…

安楽死を手助けする医師や装置の製造者に対して、

一般的殺人の犯罪者と同類とみなすような非難や攻撃をする

人たちの気持ちは、私にとって不思議なもので、

いったいどういうものか想像してみた。

一度でも安楽死を許してしまうと、最初こそ本人が

心の底から望んでいたにしても、いざ本当に死が迫る

段階に来た時、恐怖に襲われ、急に生きていたくなるものだ。

長年の苦しい延命治療を中止する決断をしても、

命を失いそうなその時に、延命の治療再開を望むものだ。

つまり、「安楽死」だったはずが突然「殺害」に変わる。

安楽死と殺害は表裏一体いや、安楽死の正体が殺害なのだ…

そういう感じだろうか。ただ、そういう感じの人は、

自分は絶対に死にたくない元気な輩で発言力が強い。

私は「死にたい」人はさっさと死ねる世の中を望んでいる。

死の危険を感じた時だけではなく、日ごろから「死にたくない」

「もっと生きたい」と常に思う人だけ生きる資格があると思う。

不完全すぎる世界

何を見ても何をしても喜びや楽しさを感じることがほとんどない。
ただ、怒りや悲しみや寂しさや得体の取れない不快感ばかりが
強く何度も襲ってくる。
日々目にする他人と比べれば、私は恵まれた生活をしている。
地獄のような生活、奴隷のような生き方しか知らなかった
遠いあの年月と比べれば、天国のような生活をしている。
それでも、この世や社会は生きるに値しないほど
有害でくだらないものばかりが蔓延っているのを感じる。
その感覚が正しいかどうかに関係なく、
そういうネガティブな表現はふつう許されない。
テロリストの感覚がどういうものか知らないが、
自分のいる世界を一気に消すとか吹き飛ばすとか
粉々に破壊したい衝動や願望があるのではないか。

自然災害が人間の世界を潰していく光景に、

有害物を浄化する感じを覚えるように。
そうでなければ自分が死ぬしかない。自分が死ねば、
このくだらないどうしようもない世界も終わるから。
何もかも望み通りになるわけではないのは当然だけど、
不完全すぎる、許せないことが多すぎるのは耐え難い。

意識と視野

ビッグバンを境に宇宙と反宇宙があって
反宇宙の時間は逆向き。その図を見て思った。

一対の宇宙を含むもっと範囲の広い本当の全体があって、
ある限られた部分だけを意識し他を無視して、
得られる不完全な世界を経験することが、
この世に生まれていつか必ず死ぬ目的かもしれない。
地球に関するありとあらゆることをすべて知るだけでも、
日常生活での極端に狭い視野による不満や苛立ちから
解放されそうだ。それは死後にそうなる気がする。
生まれる前はすべてを知っているというより、
自分として意識しない世界いや宇宙いや全体だったのが、
ある一つの銀河、恒星、惑星よりもっと狭い範囲の
微細な一個体へと意識を向ける顕微鏡に夢中になった。
その一個体には必ず寿命があるし、
一個体として意識できなくなる時が必ず来て、
そこで人生は嫌でも終わる。

その人生が嫌になったり飽きたら、顕微鏡を覗くのをやめて

意識を捨てれば死ねるだろうか。

消えた家鳴り

最近はじめて自宅の家鳴りがほとんどなくなった。
子供の時から、実家や寮や社宅の部屋から
今のマンションまで長年ずっと、
いろんな家鳴りを聞いて暮らしてきた。
旅行先の宿泊施設では鳴らない音だった。
会社の独身寮で同僚が私の部屋に来た時、
変な音が多すぎると言って二度と来なくなった。
家族は鳴れたものの一時期、怖がったりしていた。
だから幻覚ではなかった。
最近ふと、家の中がやけに静かなことに気付いた。
それで家の外から来る音がよく聞こえるようになった。
関係ないとしても金縛りや霊的幻覚も数が減っていった。
耳が遠くなったわけでもない。
人格とか性格や心境が変わったわけでもない。
唯一変わったのは、ある嫌な年齢に達したことだけ。
しかも、ストレスや疲労や持病は以前より増した。

トイレの夢

トイレの夢を見た。
外出先で空部屋のドアを開けたら和式だった。
それは使いづらいので他を探すことにした。
そのとき私がいた場所は、現実とは別世界だけど
何がどこにあるかだいたい知っていたので、
洋式だったと記憶している隠れ家みたいな
あまり知る人のいないトイレに向かった。
しかし、記憶が間違っているのか、
改築されたのか、そのトイレをなかなか
見つけられないでいた。それでも、
夢の中だけの最近の記憶から、数日前
知り合ったばかりの人の家に「ただいま」と
言って入っていった。家主は私を見て、
「おかえり」と言ってくれた。
その夢の中で私は現実での自分を覚えていて、
「あの世界」ではありえない人間関係だと
思いながら、トイレに向かった。
そのトイレは、現実の祖父母の家にあった、
長い廊下の先にトイレのドアがあって、
トイレの室内も細長い空間になっていて、
廊下と直角の方向へ延びていて、
一番奥に便器があるのと似ている構造だった。